主な収蔵作品

山口薫

YAMAGUCHI Kaoru, 1907-68(明治40-昭和43)

群馬県の榛名山麓の村、箕輪(現箕郷町)に、11人兄弟の末子として生まれる、1930年に東京美術学校を卒業してから3年間フランスに留学。帰国後は滞仏時代の友人である村井正誠、矢橋六郎らと新時代洋画展、自由美術家協会展、モダンアート協会展を次々と結成し、そこを拠点に日本におけるモダンアート運動の中心的な存在として作品を発表し続けた。抽象と具象の微妙に溶け合ったモダンな造形の中に叙情と幻想を湛えた心象風景を描いた作品は、サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネツィア・ビエンナーレ展などにも出品され、国内ばかりではなく、海外でも高い評価を受けている。58年、第2回グッゲンハイム賞国内賞、59年毎日美術賞、60年芸術選奨文部大臣賞などを次々と受賞。52年からは東京芸術大学で教鞭をとり、多くの作家を育てた。68年、東京で死去。

《紐》Cord

紐

1939(昭和14)
油彩・カンヴァス
100.0×80.0cm

この作品の描かれる2,3年前から、山口は写実を離れ、 内面の表現に向かうようになり、抽象的な傾向を強めていく。しかし、決して純粋抽象にいくことはなかった。 彼の身内にあって深い詩情を呼びさます身近なものへの愛着と、近代的な造形理論を結びつけて、抽象と具象の交錯する中に 日本的な抒情を滲ませた様式を確立していくのである。
この作品も、凧のしっぽにつけられた包紐が何気なく結ばれているのに興味を惹かれて生まれたものだという。 的確に置かれた黒によって一層みずみずしくひろがる朱赤の上に、手重りしそうに絡み合う紐の塊を運んでゆったりとたわむ曲線と 水平に広がる伸びやかな直線が、大胆な対照を見せながら見事な均衡を保つ。
それでいながら、いつしか私たちの視覚は、見えない境界をはさんで二重に重ね合わされた抽象的な空間と具象的な空間の二つの世界を、 果てしなく行きつ戻りつするかのような眩惑感にとらわれる。知と情、澄明と混沌、来世と現世・・・・。 対峙するさまざまな概念を内包しつつ、画面は古典的な静謐さを湛えて、快いリズムを響かせる。自由美術家協会第3回展に出品された山口の初期の代表作である。

《花子誕生》Birth of Hanako

*画像はありません。

1951(昭和26)
油彩・カンヴァス
100.0×80.0cm

山口薫が深く愛した故郷、箕輪村(現在の高崎市箕郷町)は、榛名山の南山麓に位置する。故郷で過ごした幼い日々の思い出や、そこに広がる田園風景は、山口薫に豊かなモチーフを提供し続けた。《花子誕生》もまた、故郷との繋がりを示す作品であり、同時に、子供や家族への愛情という、やはり山口薫が生涯描き続けたテーマが重ね合わされている。  
第二次世界大戦末期、山口薫は箕郷に疎開して実家の農業を手伝う。この作品は、そのとき世話をしていた牛が、のちに子供を産んだ際に描かれた。  
今やっと立ち上がったばかりの子牛の背中を優しく舐める親牛の姿。そこからは、親牛の子牛に対する愛情だけでなく、それを見つめる作者の暖かい眼差しが伝わってくる。また、三人の子をもつ親となっていた山口薫にとって、この作品は自分自身の子供に対する思いを投影したものでもあった。  
牛の親子の背景は、赤や白、黄、青などの色面によって抽象的に構成され、牛小舎を満たす親密な空気をあらわしている。そこに射し込む陽の光に「敗戦のみじめさ」を込めた、と山口薫は語っているが、必死に立ち上がろうとする子牛の姿は生命力にあふれ、むしろ戦後の復興への意志が表されているように思える。  
山口薫にとっても、この作品は戦後の活躍の幕開けとなったのである。

《ノートルダァム》Notre-Dame

ノートルダァム

1954(昭29)
油彩・カンヴァス
99.5X91.7cm

 山口薫は、絵画にとって何よりも重要なのは素朴な生活感情の表出であるといつも考えていた。こうして、彼の作品では、牛や馬、森、沼、田圃など、彼が心から共感できる故郷の思い出につながるものや、彼の生活の周辺にある何気ないものが、豊かな詩情に育まれて大きく展開し、叙情あふれる画面へと高められていくのである。愛する家族も彼の作品にとって大切なモティーフの一つであった。それは彼の家族に寄せるあふれるばかりの思いから始まるのだが、やがて昇華し、生命あるものへの暖かく切ないほどの愛情を示す見事な造形詩となって私たちの前に現れる。
 この作品が描かれた年には、彼の子供たちはすでに少年期に達しているのだが、発想の源になったのは、まだ幼子であった子供と若い日の妻の姿であったと思われる。子供を抱いた妻の匂い立つような気品と、母と子の間に通うあまやかで暖かな愛情の絆への感動が、長い間彼の心の中で大事に育まれて、いつしか神聖な聖母子のイメージと重なっていったのであろう。しかし、「聖母子」は西洋美術の伝統の中で、中世以来、最も重要な主題として偉大な画家たちが描き続けてきたものである。ここには山口の自信に満ちた挑戦の姿も窺われる。この頃から、山口の描く人物には目鼻立ちがなくなった、造形上の必要と、愛するものへの描ききれないほどの思いを示す、彼のぎりぎりの表現だったのであろう。

《若い月の踊り》Dancing under a Young Moon

若い月の踊り

1968(昭和43)
油彩・カンヴァス
100.0×80.2cm

 山口薫は、1967年ごろから体調を崩し、入退院を繰り返す。そんな中で描かれた作品には馬が頻繁に登場する。 馬は、牛と並んで以前から山口薫が取り上げてきたモチーフである。それは中学時代の絵日記にまでさかのぼることができ、両者とも古里の思い出と強く結びついている。牛は、新しい生命の誕生と母子愛を描いた《花子誕生》(1951年)に代表されるように、おそらくは生命力の象徴としての意味を持っている。愛娘、絢子とともに描かれることが多いのもそのためであろう。一方で馬は、少年期の乗馬の追憶だろうか、淡い光の中に浮かび上がるように、幻想的でノスタルジックに扱われる。 現在、高崎シティギャラリーに展示されている壁画《朝昼晩》(1954-55年)の画面左には、丸い月の下に馬が描かれているが、その場面は一日の終わり、「晩」を表している。このように馬は、満月と組み合わされて場面に登場することが多い。馬は、昼間活動した肉体を休息させ、精神を開放させる夜を象徴しているのだろうか。さらに突き詰めれば、馬は現実世界を越えた、精神世界の象徴ともいえるのではないだろうか。
 山口薫は、病中も描くことを止めなかった。描くという行為が、生活そのもであったからだろう。死が近づくにつれ、画面からは余計なものが削ぎ落とされ、すべてが記号化されていく。本作品にはもはや造形性や叙情性をことさらに高めようとする力みはなく、生と死を超越したところにある心象風景が、そのまま表されている。山口薫は、死を強く意識しながら、研ぎ澄まされた静謐な世界を描き出したのである。この作品を描いた年、1968年の5月19日に、山口薫は胃ガンのため60歳でこの世を去る。