主な収蔵作品

俵屋宗達

Attributed to TAWARAYA Sotatsu, 生歿年不詳(桃山時代末〜江戸時代初期に活躍)

桃山時代末~江戸時代初期に活躍した画家。伝記や出身は不明。京都の富裕な町人階級に生まれ、慶長年間(1596-1615)より、冊子本、巻物の料紙下絵、扇面画などを制作する絵屋「俵屋」を営む。『平家納経』補修や本阿弥光悦・書、宗達・画の巻物制作によって、金銀泥絵における自家様式を確立。1621(元和7)年再建の養源院障壁画制作が転機となり、障壁画や屏風など大画面に傑作を残す。桃山時代特有の力強くおおらかな造形感覚、対象を大胆にデフォルメするデザイン性などに特徴があり、「たらしこみ」を用いた独特の様式を確立した。現代の美術史において「琳派」様式の創始者と位置づけられている。

《卯の花図屏風》Deutzia

卯の花図屏風

江戸時代
紙本金地着色・二曲一隻屏風
148.0×170.0cm
戸方庵井上コレクション

総金箔地に、初夏の花、卯の花が没骨(もっこつ)風に描かれ、その左上には新古今和歌集にある白河院の歌「卯華のむらむら咲るかきねをば雲間の月の影かとぞ見る」と書かれている。本作が描かれた当初は、胡粉も鮮やかに白く、歌にいうとおりの美しさであったろう。当時の人々にとって、描かれた花は季節感や形の美しさをあらわすものばかりではなく、それにまつわる歌や物語、故事をも同時に思い起こさせるものであった。琳派の画家がよく描くものの中で、燕子花(かきつばた)と『伊勢物語』の「東下り」との関係はもっとも有名な例である。とくに詩歌については、多くを暗誦していることが、上流階級やインテリに求められた最大の教養であったから、歌意を絵にしたものはかなり多く、絵画はわれわれが思う以上に、雅な知的遊びの世界であった。卯の花も古来「卯の花月夜」として親しまれたものである。 本作の書の末尾には「寛永の三筆」の一人、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の黒文方印(こくぶんほういん)がある。光悦は、桃山から江戸初期の芸術家で、書家としては、宗達と組んで美麗な金銀泥下絵の和歌巻などを多数てがけた。この両者の関係の深いこと、卯の花は俵屋工房の得意の画題で、色紙や扇面に作例が残ることから、作者は宗達もしくはその工房の画人と考えられる。流麗な茎の線や葉のリズミカルな描写は、すぐれた技量を感じさせる。光悦の書風について、また、歌の書かれている左上のあたりだけひとまわり大きい金箔が使われていることなどは、ほかの例と比較して検討する必要があろう。