オディロン・ルドン
Odiron REDON, 1840-1916
フランス南西部の港町ボルドーに生まれた。生後2日で、ボルドーの北西にあるペイルルバートヘ里子に出され、内省的な少年期を過ごす。15歳の頃からボルドーでスタニス・ゴランに就いて素描を学び、次いで24歳の頃、パリのジェロームのもとでアカデミックな美術教育を受けるが肌に合わず、ボルドーに戻って版画家ブレダンに師事。78年、ファンタン=ラトゥールより石版画(リトグラフ)の手法を学び、翌年最初の石版画集《夢の中で》を刊行。この年、39歳だった。以後、ユイスマンスやマラルメなど象徴主義の文学者らと親交を結びながら、エドガー・アラン・ポーやボードレール、フローべ一ルの文学作品に霊感源を求めた石版画集を発表。91年以降、50歳を越えた頃から、神話や花を題材にした油彩やパステル画による華やかな色彩世界に移行した。パリの自宅で死去(享年76歳)。
《ペガサスにのるミューズ》Muse on Pegasus
1907-10
油彩・カンヴァス
73.5×54.4cm
ルドンは50歳を過ぎて、鉛筆や木炭、石版画による「黒」を主体とした表現から、油彩やパステルによる華やかな色彩世界へと移行した。描かれる対象も、独自の幻想によって生み出された奇怪な生命たちから、花や神話世界へと変化する。その中に、ケンタウロスや戦車を駆るアポロン、そしてペガサスがあった。特に戦車を駆るアポロンは、ルドンが少年期から敬愛していた色彩の画家ドラクロワが、ルーヴル宮天井画の中央部に選んだモティーフであり、闇に対する光の、混沌に対する神々の叡知の勝利を示すものであった。したがってその主題はまたルドン自身の転換点にもなぞらえられ、繰り返し描かれた。
これらの作品と同じ時期に描かれた本作品のペガサスに乗るミューズの姿は、その図像の源泉をたどるとペガサスに乗るアウロラにたどりつく。アウロラは「曙」をつかさどり、ヘリオスの引く太陽の戦車を先導する女神である。一方、ミューズは芸術家にインスピレーションをあたえる詩神であるが、9人のミューズたちが、その詩的霊感の水を飲むとされるヒッポクレネの泉は、ペガサスの蹄のあとから湧き出でたものである。ヘリオスは光明神であり、また音楽の守護神たるアポロンとしばしば同一視され、ペガサスは霊的な教化力によって悪をも超克する知徳の象徴でもあった。こうした背景から、おそらく本作品は詩をこよなく愛したルドンが、詩と絵画と知の力によって飛翔する自らの生を謳い上げたものであり、その高揚感を示したものと考えられる。
《聖セバスティアヌス》Saint Sebastian
1910頃
パステル・紙
66.7×53.7cm
1910年代にルドンは聖セバスティアヌス像を油彩、パステル、水彩等の様々な技法によって描いている。聖セバスティアヌスは、伝承によれば3世紀後半にガリア地方のナルボンヌに生まれ、ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝の親衛隊の士官となった。密かにキリスト教に改宗していたことが発覚して、弓矢による死刑が命ぜられた。このとき寡婦イレーネとその侍女とされる聖女たちに手当てを受けて回復したが、再び皇帝の異教信仰を非難したため、撲殺され、殉教したという。
ルドンの聖セバスティアヌス像の多くは、周囲に広がる風景にのみこまれてしまいそうに小さく、そこにルドン独自の人間的スケールをはるかに凌駕する神秘的な存在としての自然観が反映されている。また、ルドンが初期から執拗に描き続けたモティーフである樹は、人間が分かちがたく自然に根ざした存在であることを示唆する。さらに本作品において赤い矢羽は、足もとに描かれた白い花のような形態とあいまって、聖人の体から噴き出した血が花に変容したかに見える。瀕死の聖セバスティアヌスは、樹木に生命を注ぎ込み、朽ちた後に、再びよみがえる存在としての人間の象徴なのであろうか。本作品と構図の似たプーシキン美術館所蔵の神話的な裸婦像(1908)には《再生》という題名が付されている。