パブロ・ピカソ*
Pablo PICASSO, 1881-1973
スペイン南部にあるアンダルシア地方の港町マラガに、美術教師の長男として生まれる。1895年、14歳の時、一家はバルセロナに移住、以後数回パリに滞在し、多くの詩人や画家などの芸術家と交流しながら制作活動を展開。その生涯において、「青の時代」やキュビスムなど、様式の変遷を繰り広げ、膨大な数の作品を遺した。ピカソは、その作品の質においても、量においても他を圧倒する芸術家であった。また彫刻や陶芸、工芸作品、幾多のデザインといった絵画以外の芸術にも、その創作活動の領域を広げていった。南フランスのムージャンにて死去。ヴォーヴナルグ城に埋葬された。
《魚、瓶、コンポート皿(小さなキッチン)》Fishes, and Compote (La Petite Cuisine)
1922
油彩・カンヴァス
81.0×99.5cm
「小さなキッチン」という副題がついたこの作品から、最初に見て取れるのは、明快な色彩と、その華やかな明るさである。新聞紙の上に置かれた魚は、海を連想させる。実際に描かれた場所は別にして、この作品には、南仏でも北アフリカでも、東方的微香を漂わせる東地中海世界でもない、イベリア半島からマヨルカ島にかけての、硬質な西地中海世界が持つ、何か明るい熱のようなものを、その根源に持ち合わせているような気がする。同時に地中海的な明晰さとでもいうのであろうか、乾いた風が吹き抜けるような透明な世界も、この作品にはある。
ピカソの膨大な絵画作品のなかにあって、この作品は、いわゆる「総合的キュビスム」の作品として位置づけることが可能だろう。この作品が描かれた時期は、ピカソが、巨大な身体や量的な四肢を持つモニュメンタルな人物像を描いていた新古典主義の時代の真っ最中であったが、同時にピカソの絵画上での革命の最終段階をも形成していた。この作品では、総合的な造形言語としてコラージュの絵画的手法が用いられている。それは、描かれた新聞紙や、コンポート皿の背景を塗りつぶすようにオリーヴ色を重ねたフラットな色面からも見て取れる。その意味でこの作品は、その形態と平坦な色彩でまとめ上げられた空間構成において、ピカソにおけるキュビスムの完成形といえるだろう。しかし同時に、おおらかで多様な日用品が描かれている点から、1924年にはじまる静物画シリーズへの橋渡し的作品ともみられる。
《ゲルニカ(タピスリ)》Guernica Tapestry
1983
タピスリ・ウール、綿
328.0×680.0cm
「ゲルニカ」とは、北スペインのバスク地方にある小都市の名称である。この町は、バスク人にとって深い意味を持っていた。バスクの人々は中世のはじめからこの町を首都と考え、彼らの独立精神と民主主義の象徴と考えていたのだ。1937年4月26日、独裁者フランコを支持するナチス・ドイツはこの町を爆撃する。
この作品にはピカソにおける二つの重要な象徴が描かれている。ひとつは中央の荒れ狂い逃げまどう馬であり、もう一つは画面左上に描かれた虚ろな目をした牡牛である。馬は人民をあらわし、そして牡牛は獣性と暗黒の象徴として描かれている。この二つの動物の対比に、ピカソがこの作品に込めた怒りと悲惨があるわけだが、ただ後にピカソが語っているように、この牡牛はファシズムを象徴しているわけではないらしい。だとするとこの作品は、戦争という人間性を抹殺した極限状況における、人間全体の残忍性、恐怖、悲惨さ、虚脱感をあらわしたものであり、我々人類に対するピカソの警告とみることもできる。
この作品は、有名なピカソの大作《ゲルニカ》(1937、マドリード、レイナ・ソフィア現代美術センター蔵)をもとにしたタピスリーの3番目のヴァージョンである。ピカソは第1番目(1955)のタピスリー制作後、その下絵に修正を加え、第2、第3ヴァージョン用の指示を加えた。それは使用される毛糸の染色に対する指示とタピスリーに縁をつける指示である。故に本作品にはブラウングレーの縁取りがなされている。因みに第2ヴァージョン(1976)にはブラウンレッドの縁取りがある。本作品の染色師は、第1、第2と同様、オービュッソンの染色師ピエール・シドラである。