大澤雅休
ŌSAWA Gakyū, 1890-1953(明治23-昭和28)
群馬県大類村(現高崎市)に農家の長男として生まれる。小学校の教職に就くかたわら文学に親しむ。『ホトトギス』に小説や俳句を発表、1918年アララギ会員となり、22年野菊短歌会を創立して短歌誌『野菊』を創刊するなど、文学の活動で世に聞こえた。書は、43歳で比田井天来に教えを受け、上田桑鳩らが学んだ書道芸術社の同人となってから本格的に始め、間もなく天来の創設した大日本書道院第1回展で最高賞を受賞している。やがて平原社を結成主宰、また書道芸術院の創立にも参加して、書家の研鑚と発表の場を用意し、指導力を発揮した。余白に墨を散らす手法など、雅休の書家としての独創性は、当時として際立つもので、以降の現代書表現の基盤を準備したと評価される。遺作18点は夫人により群馬県へ寄贈され、群馬県立近代美術館に収蔵されている。
《黒岳黒谿》 Black Mountain, Black Valley
1953(昭28)
紙本墨書・二曲一隻屏風
136.0×136.0cm
大澤イヨ氏寄贈
本作品は委嘱作品として制作された大澤雅休の遺作だったが、日展出品を拒否された。「画」に近い前衛的な作品と見られたことが理由だった。雅休の主宰した平原社員たちの重ねての要請にも関わらず、この作品が展示されることはなかった。
戦後まもなく、書家は書を造形表現としてとらえはじめる。中でも革新的な作家たちは、1950年代初頭にかけて、文字の点、線、動きなどの造形要素のみを抽出して紙面構成をはかった。雅休もこの時代に制作した。しかし雅休を、書の解体を試みた作家の一人としてとらえるのは誤りである。雅休はそもそも文学者であり、自らの内にある文学を表現する一つの手段として書に近づいた。雅休は革新的な運動に惑わされることなく、書を文字を書く場としてとらえつづけた。
本作品を「画」とみる要因ともなったであろう墨の飛沫は、雅休のほかの作品でも展開されている。この飛沫は、雅休の創造のエネルギーを伝えこそすれ、決して線の筆力と美しさを損なわない。本作品は、雅休と深い信頼関係にあった棟方志功が目撃した、字に命を乗せるかのように書く雅休の姿を思い浮かばせ、雅休が志功の芸術を賞して語った「懐抱の一抹をもあとに残さぬことを目ざす至境」を伝えるものといえよう。