南城一夫
NANJO kazuo, 1900-86(明治33-昭和61)
前橋市に生まれる。1918年、旧制前橋中学を卒業して上京、岡田三郎助の主宰する本郷絵画研究所で絵を学び、同所で岡鹿之助、伊藤廉と知り合う。20年、東京美術学校西洋画科入学。24年、岡と共に渡仏。戦争により帰国を余儀なくされる37年まで滞仏。ロジェ・ビッシェール、アンドレ・ロートなどに学ぶ。39年、中学からの友人であった横堀角次郎に勧められて春陽会に出品。翌年、会友となる。戦後の一時期、日本国際美術展や現代日本美術展などにも出品したが、春陽会を主な発表の場として活動。66年、銀座・兜屋画廊での個展、77年、銀座・松坂屋で回顧展、81年、群馬県立近代美術館での「南城一夫展」がある。前橋の借家を離れることがほとんどなく、晩年安中に転居して死去。
《鯛の静物》Still Life with Sea Bream
1927(昭和2)
油彩・カンヴァス
72.8×91.0cm
1925年2月、パリの地を踏んだ南城一夫は、百花繚乱の芸術が競い合うエコール・ド・パリ全盛のただ中で、日本の美術学校で学んだものが何の役にも立たない現実に向き合い、戸惑い、苦悩した。「油絵のマチュールというものが、水彩画のような僕の油絵とは全然ちがうところから出発していることを学んだ」南城は、堅固な画肌と強固な画面構成を絵作りの基本として制作を行う。その12年間に及んだパリ留学の2年目に生まれたのがこの作品である。
「ある日この絵が出来て、終日ソワソワしていた。これは僕の絵だ。とうとう僕にも絵が描けたのだ」。それまでのスランプが深刻だっただけに、本人や周囲の喜びも大きかった。岡鹿之助をはじめとしたパリの友人たちは、祝い菓子のような鯛のほのぼのとした楽しさに―この楽しさこそが終生南城芸術を彩る独特の詩情なのだ―、この絵を「鯛魚(たいとと)」と呼んで南城の復帰を祝ったという。
暗中模索していた南城がはじめてオリジナルな自分の絵が出来たと語るこの作品を、南城は「僕のクラシック」と呼んで、長い間前橋の作者の手元に大事に置いていた。その後、新潟の実業家で旧大光相互銀行の創設者、駒形十吉が運営する長岡現代美術館の所蔵となったが、大光相互銀行の再編成に伴う「大光コレクション」の売却騒ぎで、この作品は県立近代美術館が購入するところとなり、作品は再び群馬に戻った。1981年の秋、県立近代美術館で開催された県内初の「南城一夫展」終了直後のことである。
《仔山羊のくる部屋》Room with Little Goat Approachin
1969(昭和44)
油彩・カンヴァス
91.0×65.5cm
カンヴァス裏に「月明の子山羊」と記されている本作は、第46回の春陽展にその題名で発表されたものである。その後、1977年の銀座・松坂屋での個展の際に「仔山羊のくる部屋」と呼称されるようになったものと思われる。その個展のカタログに掲載された小川正隆氏の「南城絵画の魅惑」という文章の中で、制作に立ち会っていた人の話として、本作に関する興味深いエピソードが紹介されている。それによると、はじめのころは室内を示す壁も床も描かれず、木立の中に仔山羊がいる風景的な画面であったが、最後の段階になって、この絵の前景となる室内の情景が一気に描きあげられたという。作者の制作の秘密に触れるエピソードと言えよう。
53年の作品で本作と構図の似ている《兎の来る部屋》(72.8×60.6cm)と題された作品がある。本作の制作は、その移ろい行くイメージが、先行作品の造形と重なったものであろうと思われる。
遅筆と言われ、なかなか作品が完成しないために「幻の画家」などとも呼ばれた南城一夫は、納得しなければ作品を塗りつぶしてしまう気難しさを持ち、内なるポエジーと造形表現との間で苦心を重ねた画家である。長い時間かけて生み出された作品のマティエールは、何層にも重ねられた絵の具の輝きをたたえながら、堅牢で奥深い美しさに溢れている。