岸田劉生
KISHIDA Ryūsei, 1891-1929(明治24-昭和4)
目薬の製造販売を営んでいた明治の先覚者岸田吟香の四男として東京銀座に生まれる。1908年、黒田清輝が指導する葵橋(あおいばし)洋画研究所で絵を学ぶ。10年、第4回文展に2点入選。翌年、雑誌『白樺』からゴッホやセザンヌを知り強い影響を受ける。武者小路実篤ら『白樺』同人とも交流。12年と13年には、斎藤与里らとフュウザン会の展覧会を開催。デューラーをはじめとするルネサンス絵画に関心を移し、独特の写実表現へ転向。15年、木村荘八、中川一政らと草土社を創立。22年までに9回の展覧会を開き大正期の大きな流れを生んだ。23年、関東大震災を契機に京都に移住、初期肉筆浮世絵や中国宋元画へ傾倒し、制作よりも鑑賞と収集に熱中する。29年、満州に滞在。帰路、山口県徳山で病に倒れ、同地で死去。
《五月の砂道》Sandy Road in May
1918(大正7)
油彩・カンヴァス
31.0×40.9cm
1916年7月、岸田劉生は肺結核の宣告を受けた。人一倍死を恐れ生に執着した感受性の強い劉生には、もっともつらい時期であったと思われる。翌年の2月、療養のため神奈川県鵠沼に転居。その効あってか、その年の暮れ頃には健康を取り戻している。本作が描かれた18年の春には、健康であることの喜びを全身に感じて新緑の季節を満喫したことだろう。避けていた戸外での写生もにわかに増えている。 画面の上部にかすれた文字で書かれているのは、「5月16日 劉 1918」という日付である。カンヴァスの裏面にも書き込みがあって「五月の砂道 千九百十八年五月十六日描之 要三日間 岸田劉生画」と記されている。几帳面な性格にもよるのだろうが、劉生にとって作品は言わば日記と同じ人生の記録であった。日付は欠かせないものであり、劉生の多くの作品に書き込まれている。
この年の夏から秋にかけて、劉生は麗子をモデルにして初めて娘の肖像を描いた。東京国立近代美術館が所蔵する《麗子五歳之像》である。以後、数々の麗子像が生まれたことはよく知られている。劉生にとって実り多い年であった。