主な収蔵作品

福沢一郎*

FUKUZAWA Ichirō, 1898-1992(明治31-平成4)

群馬県富岡町(現富岡市)に生まれる。旧制第二高等学校(現東北大学)英法科を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)文学部に入学するが、次第に大学から遠ざかり、朝倉文夫に師事して彫刻を学ぶ。1924年から31年まで渡欧。滞欧中、彫刻から絵画へ転向。シュルレアリスムの影響を受けて帰国。30年に結成された独立美術協会を舞台に、シュルレアリスムの画風による前衛絵画のリーダーとして活躍。39年、美術文化協会を創立してその立場を鮮明にする。戦後は、社会風刺や文明批評を盛り込んだ作風で、歴史や神話、ときには地獄にも想を得て、様々なテーマを様々な表現技法によって追求し続け、大作や連作を発表。91年、文化勲章受章。翌年、東京で死去(享年94歳)。

《嘘発見器》 Lie & Detector

*画像はありません。

1930(昭和5)
油彩・カンヴァス
80.3X100.0cm
作者寄贈

たとえば4人の仲間が集まって、「いつ」「どこで」「だれが」「何をしたか」という断片的な文章を書いて寄せ集める。その結果「星の輝く真夜中に、壊れかけた冷蔵庫の中で、クレオパトラが、フルートを奏でる」という、奇妙だが魅力的な一片の詩が作られたとしよう。それを上手に絵にしたと想像していただきたい。シュルレアリスム(超現実主義)の絵画の中で、デペイズマンとかコラージュとか呼ばれる技法は、このようなものである。
福沢一郎が、1930年前後に制作した作品の多くは、このシュルレアリスムの技法に則っている。そこでは、本来あるべからざる組み合わせによって様々な事物が出合い、衝撃的な非合理の美しさを醸し出すのである。「嘘発見器」と題された本作もそのひとつ。
近年、研究者の努力によって、福沢が利用した“素材”が次々と発見されてきた。その結果、本作の左側の二重の人体は、古いフランスの雑誌に掲載されている彫刻の複製を取る技術の挿絵から取られ、右側の箱状の器具も、当時の科学雑誌のマイクロフォンの挿絵の一部をそっくり転用していることが分かった。

《他人の恋》The Love of the Others

*画像はありません。

1930 (昭和5)
油彩・カンヴァス
162.1×130.3cm
作者寄贈

中空に浮かぶ女性の下半身、仰向きの猿、板塀を前に身をかがめる男、塀の向こうに白く描かれたシルエット、そしてコウモリ傘をさす紳士。これら奇妙なモティーフが錯綜する画面は、見る者の理性を揺さぶり、認識を混乱させる。  
画面右下に書きつけられたフランス語の一文Il n'est plus bon qu'à regarder les amours des autres「彼はもはや他人の恋(情事)を覗き見ることぐらいしかできない」が示すように、白抜きのシルエットは睦み合う一組の恋人たちであり、男は塀ごしにそれを覗いている。作品全体の完全な解釈は難しいが、男の行為を半ば覆い隠すように浮遊する女性が、性愛を司る女神ヴィーナスであり(背後に彼女の持物である鳩とオリーブ樹が描かれている)、猿もまた西洋では古くから淫欲の象徴とされることから、本作が、窃視者の欲望をめぐる寓意(アレゴリー)を主題としていると考えられる。  
1924年、彫刻を学ぶために渡仏し、やがて絵画に転じた福沢は、非論理的思考の表現をめざすシュルレアリスムの影響を受けた。本作においてもシュルレアリスムの代表的技法のひとつ、デペイズマンが用いられている。日常ではありえない事物の組み合わせにより不条理感を演出するこの手法と、象徴という古典的な主題表現を混合し、福沢は意味と無意味が織りなす不可思議の世界を描き出した。

《敗戦群像》Group of Figures Defeated in Battle

*画像はありません。

1948(昭和23)
油彩・カンヴァス
193.9×259.1cm

 戦前の日本にシュルレアリスムの画風を持ち込み、画壇に大きな影響を与えた福沢一郎は、 戦後間もなく戦時中の不自由を吹き飛ばすかのように次々と作品を発表し、その健在振りを世に示した。福沢は「人間に執着し人間を描く事に於いては、 戦後の混乱期が最も精彩があったように思う」と語り、その生々しい現実世界は「抽象画のような間接法ではうまくとらえられたとは思わない。 直接法で、具象的にダダやシュールレアリスムの手法さえ駆使して描き出すべきであったろう。そしてその通りに私はした。それが私の芸術というものである」と自信に満ちて言い切っている。
 本作は、ピラミッド型に折り重なる裸の人間が前面に大きく描かれている。 それは、荒野に捨てられた死体の山のようでもあり、衣服をはぎ取られながらももつれ合って生きようとする人間の象徴のようでもある。背景の地平線の広がる荒寥とした大地は、戦前の代表作である《牛》(1936、東京国立近代美術館蔵)にも共通するもので、大作に相応しいモニュメンタルな大きさをこの作品に付与している。社会への関心の強さ、群像による表現手法などに、その後の福沢芸術の展開を予告するものが見て取れる。