主な収蔵作品

藤牧義夫

FUJIMAKI Yoshio, 1911-1935?(明治44-昭和10?)

群馬郡邑楽郡館林町(現館林市)に生まれる。1925年館林尋常高等小学校卒業後、31年上京。銀座の植松工房に勤務するかたわら版画を独習する。32年小野忠重らの「新版画集団」の創立に参加し、以後主として同展覧会に作品を発表する。33年第14回帝展に《給油所》を出品し初入選。35年《隅田川絵巻》の制作に励んだが、完成して間もない同年9月2日、小野忠重の自宅を突然訪れ作品を預けて立ち去り、そのまま消息を絶った。

《つき》Moon

つき

1934(昭9)木版・紙
12.7×12.8cm
中村崇也氏寄贈

藤牧が24歳で消息を絶つ前年、『新版画』第12号に発表された作品。『新版画』は、新版画集団の同人版画誌として、1932年6月から35年12月にかけての3年半に、あわせて18巻刊行された。1号から8号まではほぼ月刊誌なみに発行された、9号以降季刊誌となり、多いときに200部、少ないときには30から50部作られた。製本屋に台紙を作ってもらってから、小野忠重宅や清水正博宅に集まってみんなの版画を貼り込んだという。この12号は、藤牧が編集にあたっている。
小野忠重、水船六洲らの作品とともに最後の頁に貼り付けられたこの作品は、わずか13cm四方の粗末な紙に刷られているが、他の同人作家の作品にある趣味性や素朴な味わいとは一線を画している。父親に続く兄の死による悲愴なまでの「家」への責任感の重圧、生活苦、病気、そして戦争へと進む時代への不安。制作当時の藤牧を取り巻く状況は、深刻であったと想像される。神経を切りつけるかのような三角刀の鋭利な痕。何かが崩壊する予感、藤牧の内的映像はあまりにも痛々しいが、かっての客観的描写は心情表現を経て、心象風景の表出へと推移し、ここでは、色と形という造形言語だけによる作品に結実している。《赤陽》(1934)とともに表現主義的な探求の最良の成果を示す作品といえる。