鶴岡政男*
TSURUOKA Masao, 1907-79(明治40-昭和54)
群馬県高崎市に生まれるが、幼少時から住所を転々とし、8歳で上京。太平洋画会研究所で井上長三郎、靉光らと交友を結び、NOVA美術協会を結成。《髭の連作》など軍部を風刺した作品を発表。1937年、応召され兵役に服して中国大陸に渡る。40年、兵役解除となり、43年には松本竣介らと新人画会を結成。戦後はそのメンバーらと自由美術家協会に合流。54年、雑誌の座談会で「事ではなく物を描く」ことを主唱。同年、第1回現代日本美術展に出品した《落下する人体》が佳作賞、63年、第7回日本国際美術展では《夜の祭典》が優秀賞を受賞。常に生きた時代と深く関わりながら、人間の根源を問い続け、鋭い風刺と醒めた虚無感の漂う独自の画風をめまぐるしく展開。60年代からパステル画も増え、晩年になるにつれて、一種の軽みが不可思議な色彩の豊かさを生み出した。群馬県立近代美術館での回顧展の閉幕3日後に東京で死去。
《夜の群像》Night Figures
1949(昭和24)
油彩・板
130.5×162.0cm
戦前の作品を東京大空襲で焼失し、焼け跡の廃墟の中から歩みだした鶴岡政男は、戦後の虚脱状態と、性急な人間回復の波の間で、異常な現実感を持った作品を第13回自由美術展に発表する。この作品はNOVA美術協会時代からの画友、松本竣介の死後、そのアトリエに残されたベニヤの廃材に描かれた。
褐色の土と、黒い海、青黒い空に塗り分けられた空間の中にうごめく、性別も定かでない肉体。頭部がなく、踏みつけ絡み合いながらもがく群像は、中央の臀部を中心にして、右側の人物から円を描くように運動感を持たせて構成されるとともに、夜空に不安定に上昇するかのような塊として表現されている。作者自身「群像で混沌とか、矛盾を描きたかった」と記しているが、戦争はここでは、皮相な時間の現象としてではなく、人間の内面的な危機と破滅の様相としてとらえられている。翌年以降、その作風は幾何学的な抽象へと新たな展開を示すが、右側の臀部にある乳首のように、鋭い風刺とともにあるユーモアは、その後も鶴岡芸術を特徴づける要素として絶えず存在し続けた。
《落下する人体》Falling Figure
1954(昭和29)
油彩・カンヴァス
91.0×72.5cm
1907年に高崎に生まれた画家、鶴岡政男は、8歳のとき東京に移り、15歳から太平洋画会研究所で絵画を学びました。30歳で仲間とNOVA(ノヴァ)美術協会を立ち上げるも、日中戦争が勃発すると、召集により大陸に赴きます。このときの凄惨な戦争体験と、帰国後の空襲、そして敗戦直後の不況の記憶は、その後の鶴岡の芸術に大きな影響を及ぼしました。
東京大空襲でほとんどの作品を失った鶴岡は、戦後に画業を再開すると精力的な創作活動を展開し、《夜の群像》(1949)や《重い手》(1950)など、敗戦直後の心理状況を反映した作品を次々と発表します。1954年に描かれた本作品《落下する人体》もまた、その流れに連なるものですが、以前の作品に見られる肉体の不気味なデフォルメや暗く混沌とした画面にかわって、ここでは、四肢を広げ、回転しながら落下していく人体が幾何学的フォルムと明るい色彩で表現されています。
鶴岡は本作品について後にこうコメントしています。「空襲。花火のように美しい感じと、美しいと感じた自分の残酷さ。その矛盾を絵にしました」。鶴岡は本作品の抽象表現を通して「美しいと感じた自分の残酷さ」という自己の矛盾した感覚を、正常と異常が同居する不可解な人間心理へと普遍化しようとしたのでしょうか。平明な中に謎めいた輝きが宿る色彩も、バランスを失った感情と理性の不思議な均衡を暗示しています。常人が目をそむけるような人間性の深淵も見据えずにはいられない、鶴岡の表現者としての業(ごう)のようなものを感じさせる作品です。 (美術館ニュースNo.120より)