安田靫彦
YASUDA Yukihiko, 1884-1978 (明治17-昭和53)
現在の東京都中央区日本橋の料亭「百尺」の3代目安田松五郎の四男として生まれる。本名は新三郎。13歳で下村観山、横山大観らの作品に触れ、画家を志す、1898年、大和絵の小堀鞆音(ともと)に入門、鞆音の師川崎千虎(せんこ)から靫彦の号を与えられる。同門の仲間と研究グループ紫紅(しこう)会(のちの紅児(こうじ)会)を結成。初期院展に第1回展より出品、文展の新旧両派の抗争時には新派の国画玉成会を組織した。また、1914年の日本美術院の再興にあたっては、同人として参加し、以後院展を中心に活動した。大和絵を基礎とし、古典の追求による新しい感覚の歴史画は、院展の主流となった。44年から51年まで東京美術学校教授を務め、48年文化勲章を受章した。大磯で死去。
《役優婆塞(えんのうばそく)》 The Hermit En-no-Ubasoku
1936(昭和11)
紙本着色
173.7×119.6cm
この作品は、1935-36年を中心に起こった帝展改組問題で紛糾していた最中に開催された、第1回改組帝展に出品されたものである。すでに美術界の中で重要な人物となっていた靫彦は、この改組帝展の審査員をつとめている。 役優婆塞とは、一般に役行者(えんのぎょうじゃ)といわれる役小角(えんのおづぬ)のことである。奈良時代初期に葛城山にこもって苦行を積み、金峰山、大峰などを開山したが、その修行中の奇行から、世俗を惑わす者として恐れられ、伊豆に流された。その後、平安中期以降に密教は飛躍的に発展し、それに伴う修験者の活躍により、修験道の開祖としてあがめられるようになった人物である。靫彦はこの行者を日に焼けてたくましい「ひとつの理想の男性形」として描いている。そこには、美術界の真の発展のために尽力していた靫彦の、画家としての強い意志が表現されているといえるだろう。
靫彦の画風は大和絵を基礎としつつ、綿密な古典追求により生み出されたものであり、新古典主義と呼ばれていた。