湯浅一郎
YUASA Ichirō, 1868-1931(明治元-昭和6)
醤油味噌の醸造販売を家業とする安中の湯浅家の長男として生まれる。父治郎が同郷の新島嚢の信奉者であった関係で、京都の同志社英学校に入学、1888年、東京に出て山本芳翠の生巧館画塾に入り、その後黒田清輝の天真道場に学ぶ。1896年、東京美術学校に西洋画科が新設されたのにともないその選科3年に入学。同年、白馬会の結成にも加わる。1905年から09年にかけて渡欧。スペインでベラスケスの模写に熱中。帰国後、山下新太郎らとともに二科会の結成に参加。その後は、人物画を中心とした堅実な画風で二科会を中心に作品を発表、天真爛漫な性格と温和な作風の湯浅は、明治から大正へと続く日本近代洋画史の中で常に本流に身を置いてきた画家といえよう。東京赤坂の自宅で死去。
《画室》Studio
1901-03(明治34-36)
油彩・カンヴァス
159.5×106.5cm
湯浅ゆくゑ氏・湯浅太助氏寄贈
アトリエの中のモデルを描いた本作品は、石井柏亭の記すところによると、 黒田清輝率いる白馬会の展覧会に出品された後、1903年の大阪の内国勧業博覧会に出品され、その際、 黒田の助言に従って現在あるように上半身に衣服が描き加えられたと言う。 加筆される前の作品と上半身裸のモデルを一緒におさめた当時の写真も残っており、この作品の意図や裸体画問題、黒田の作品ではないかと指摘される右上の画中画などをめぐって議論されることの多い作品である。
制作年については、最初に発表されたのが1901年の第6回白馬会展であることが近年の研究で明らかになり、1901-03年とすべきであろう。 画面左下には、加筆した年である1903年の記入があり、湯浅のモノグラムである、「卍」の逆向きの記号が付される。他の作品では正しい向きの「卍」も使われており、 その使い分けについては今後の研究課題である。なお「卍」は湯浅家の家紋であった。
棚の上の髑髏(どくろ)とモデルの足元に落下する花びらとに、西洋の伝統にあるヴァニタス(虚栄、生命のはかなさ)の寓意が指摘され、外光を意識した描写とともに、当時の白馬会の画風を端的に示す湯浅の代表作の1点である。
《室内婦人像》Woman in Interio
1930(昭和5)
油彩・カンヴァス
130.5×97.5cm
湯浅ゆくゑ氏・湯浅太助氏寄贈
黒田清輝の指導の下、明治30年代に《徒然》《画室》など意欲あふれる作品を残した湯浅一郎は、明治38年の暮れから4年間、油彩の本場ヨーロッパに留学した。スペインでベラスケスの模写に精を出した湯浅は、人物画こそ油彩の本道であり、日本が学ばなければならないものだという確信を持って帰国する。ところが日本の近代洋画の歴史は、湯浅が行おうとした地道な努力とは別の、性急で表面的な模倣の道を選ぶ。
湯浅の晩年の作品であるこの作品は、画面右手前から光の差し込む室内で、揺りいすにくつろいで座り、新聞を読むゆくゑ夫人をモデルにしている。骨とう屋を回るのが好きだったという湯浅は、旅先でもさまざまなものを買い集めてきたようだ。本作に描き込まれた雑多な品々を見てもそのことがうかがえる。それにしても、これだけ数多くの物を描き込んでいながら画面が決して雑然としていないのは見事だ。ゆくゑ夫人の背後には変わった形の鏡が置かれ、そこにはこの作品を描いている湯浅自身が、画架を前にした姿で写っている。自画像をほとんど残さなかった湯浅は、晩年のこの作品の中に自らの姿をとどめた。湯浅が63年の生涯を閉じるのは翌年のことである。